予期せぬ素晴らしい体験

20周年記念パーティーに出席してくれたナジラさん(右)

今回は、ウズベキスタン協会理事の鳴海 和子さんからの寄稿文を紹介します。鳴海さんは、ウズベキスタン・タシケント市出身のピアニストの故アレクセイ・スルタノフ氏のファンというつながりから長年ウズベキスタン協会の活動をお手伝いいただいております。

今回の旅で、長年応援されているスルタノフ氏の出身地を初めて訪問し、縁の場所を訪ね、新たにわかったこともあったようです。

以下、鳴海 和子さんの文章をご紹介します。

鳴海和子さん

出発前、こんなにも素晴らしい体験ができるとは思いもしませんでした。日ごろお世話になっている協会の旅行でウズベキスタンへの理解を深めたいという思いは勿論ありましたが、私が長年応援しているタシケント出身の音楽家 故アレクセイ・スルタノフの従姉ナジラ・モハメドヴァさんと会って話を聞く目的もありました。今回、川端理事長の計らいで会うことが叶いました。

スルタノフの父が親族の中でスルタノフに一番似ているからとナジラさんを案内役に任命してくれました。ナジラさんは前日のウズベキスタン協会20周年記念パーティーにも参加してくれました。私は、翌日皆さんと別行動し、通訳を交え彼女とスルタノフの思い出の地を訪問することができました。

まずスルタノフが通っていた、ウスペンスキー特別学校を訪問しました。学校の理事長が休みの日にも関わらず、学校の中を隅々まで案内してくれ、スルタノフが指導を受けた優れた音楽教授のタマラ・ポポヴィッチ先生の思い出を語ってくださいました。この学校は、幼い子供たちの才能を最大限に伸ばすことに努めており、工夫に富んでいました。今回、スルタノフに関する資料は荷物の重量制限の兼ね合いで、簡単な資料のコピーしか持参していませんでした。校長先生はスルタノフの資料を集めておられ、そのコピーを熱心に何枚も写真に収められ、もっと他の資料も持ってくれば良かったなと後悔しました。また、理事長はスルタノフより4歳年下でタマラ先生の下で共に勉強されたそうです。若くして校長、理事長になられたことからも、その才能が飛びぬけていたことが窺えます。

右から理事長・鳴海さん・学生・ナジラさん

その後、スルタノフの父方の祖母が眠る有名人だけの墓地に連れて行ってくれました。この方はウズベキスタンで初めて顔を隠さず舞台に立った有名な女優で、国家名誉女優の称号を与えられ、この墓地に埋葬されていました。スルタノフの死後、遺灰はメキシコ湾に撒かれたと聞いていたのですが、ウズベキスタンの地に眠りたいとの本人の願いが叶えられ、大好きな祖母の墓地の土の下にも撒かれたことがわかりました。また、このお墓の隣には有名な歌手バティール・ザキロフが埋葬されていました。実は、私が長年関わってきた「アレクセイ・スルタノフ記念コンサート」でザキロフが歌った歌「ウズベクタンゴ」「魅せられて」をバイオリ二ストの黒柳紀之さんとピアニストの呉信樹さんが弾かれました。私たちは偶然この曲をプログラムに選んだのですが、不思議なつながりがあったことに驚きました。

おばあさんのお墓(左)とザキロフのお墓(右)

最後に、スルタノフ一家が住んでいたアパートに案内いただきました。両親が勤務していたタシケント音楽院から道を隔ててすぐの、木に囲まれた閑静な場所でした。家の前を流れる小川で幼い頃、弟のセルゲイさんと共によく水浴びをして遊んでいたそうです。庭には「アレクセイ・スルタノフ記念コンサート」でセルゲイさんがスピーチされたプラタナスの木もあり、二階の窓からこの木を見つつ、日本に思いをはせて語り合ったのだなあと胸が熱くなりました。このアパートは震災後、結婚した末の息子のために祖母がくれたものだそうです。祖母は郊外の大きな家のほかに3つアパートを持っており、それぞれ三人の息子たちに分け与え、ウズベキスタンの風習に従い、それぞれの家で一定期間、一緒に暮らしていたとのことでした。

スルタノフ家のアパート

スルタノフ以外にも語りたいことはたくさんある旅でしたが、他の方が経験されていないウズベキスタンの思い出を記しました。お世話になった方々に心からお礼申し上げます。忘れられない素敵な旅になりました。本当にありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました